ケツァル・コアトルは「戦い」と「人間への愛」
太陽神殿にある斧を奪取すべく、マスター一行は向かいます。
その場所はケツァル・コアトルの力の源でもあります。
自分の力の源を破壊させないために彼女は必死に抵抗、というよりも、戦い自体を楽しみにしていた様子がありありです。
「これが私の生きがいなの」
前回イシュタルが、神について語っていたことを覚えているでしょうか。
「神は生まれた時から役目と能力が決められて、変わることはない」と。
ケツァル・コアトルの生きがいは、「戦い」。
それも人間との真剣勝負が、彼女の存在する証明であり生きるための糧でもあります。
正々堂々と立ち向かってきた人間との戦いは、この女神にとって虐殺対象でも反逆者でもありません。
自分に立ち向かってくる人間と戦う事は、彼女なりの人間への愛です。
そして「善性の頂点」といわれるほど、彼女は愛深き女神でもあります。
文字通り「それがないと生きれない」女神です。
fateシリーズは、こういう設定が実に細やかなところが私は好きです。
人間を滅ぼすこと=人間への愛
ケツァル・コアトルにとって、人間と戦う事=人間を滅ぼす事=人間への愛という図式が成り立っています。
人間との真剣勝負を心の底から楽しんでいるのは、人間への愛の表現。
彼女の持って生まれた善性の神としての性質からみれば、当然の行為です。
だから11話の戦闘中のケツァル・コアトルは、のびのびと遊ぶように、また子供のように楽しんでいる表情をしています。
人間が好きならば、人間を傷つけることも滅ぼすこともしないはず。
でもケツァル・コアトルには、その常識が通じません。
しかも主神クラスの女神であり、明確にイシュタル自身と神格が違います。
メソポタミアの女神であるイシュタルが「やりにくい」「かかわりたくない」とこぼすのも、無理はないでしょう。
実際戦闘力も非常に高く、メソポタミアの「戦いの女神」でもあるイシュタルも軽くあしらわれています。
ケツァル・コアトルは主神であり、イシュタルは有名な女神とはいえ神々の一柱にしかすぎません。
イシュタルは絶対に埋まらない神格の差、役割の差を知っているからこそ、彼女と戦うときは最初から仏頂面が多いのは表現が細かいですね。
変化できる人間を愛すべき存在と考えるのがケツァル・コアトル
メソポタミアの神々と決定的に違うのは、人間に対する考え方でしょう。
マスターの決意をくんで仲間になりますが、それは人間が変化する事に期待をしているほかにならないと考えています。
メソポタミアの神々は「人間は自分達が管理すべきもの」が、基本的なスタイルです。
ケツァル・コアトルは「自分に立ち向かう強さと人間の変化していくさまが素晴らしい」が、基本的なスタイルです。
予定調和と規律を重視するメソポタミア側と、脆弱ながらも変化を愛するアステカ側。
この対比も、実に興味深いです。
ギルガメッシュ王のあのシーンが動いた
FGO7章のシナリオの中に、ギルガメッシュ王が死んだ展開があります。
死因は、過労死。
人類初の過労死かもしれません。
そして冥界で「死んでいるではないか、我!」と一人ボケツッコミをやってしまうという。
私はシナリオ中のこのシーンが、結構好きでした。
ですので今回見れて、満足です。
いくら「全てを見てきた人」と称えられる思慮深さと能力をもち、半神半人とはいえ、あれだけ休みなしに政務をしていたら、流石にねえ。無理がたたりました。
ギルガメッシュは一部の隙もない有能さなのに、時たま見せるドジっ子ぽさ。
それがとても可愛らしく見えて、大好きなキャラです。
冥界といえば、あの女神がさらっとマスターのそばに出てきていましたね。
やっぱり24~26話構成でしょうか、この話数と展開は。