16話「目覚め」と17話「会議は踊る」あらすじ
・16話「目覚め」
キングゥがフラウに体を貫かれ、森の中に逃亡します。
しかし執拗に追撃してくるフラウに追い詰められたキングゥ。
自分の最後を覚悟したとき、一体のフラウが襲い来るフラウからキングゥを助けます。
訳が分からないキングゥに対して、息も切れ切れに「あなたは孤高の王に人生を与えた。偉大な王へ道を示してくれた事を感謝してる」と感謝の言葉を述べます。
そのフラウは、シャドゥリを核にして生まれたものだったのです。
彼女は何度も何度も「ありがとう」といいながら亡くなります。
キングゥはそれを聞きながら無意識に涙が流れていることに気が付き、エルキドゥの肉体に残っていた記憶なのかどうか戸惑います。
「ティアマトの子供」というアイデンティティが崩れ落ち、自分が一体何なのかわからなくなったキングゥは、ただ一人で森の中に立ち尽くすしかありませんでした。
そしてそのころマスター達も、聖杯をティアマトにわたるのを阻止しようと黒牛若丸(中身フラウ)と戦闘をしますが間に合わず。
ついにティアマトは、聖杯を手にしてしまいます。
そして本格的にティアマトの覚醒が起こり、虚数世界に封印されていた彼女が目覚めます。
・17話「会議は踊る」
マスターの令呪とイシュタルの最強宝具の合わせ技で、目覚めたティアマトを倒せたと喜ぶ一行。
しかしそれは、ティアマトの本来の姿でもなく力でもなかったことがわかります。
あまりの魔力量と霊基の違いに、主神であり抜群の攻撃力を誇るケツァル・コアトルでさえも「誰も傷一つつけることができない」と断言するほど。
体制を整える為にウルクに戻り、ギルガメッシュ王と今後のことを協議します。
カルデア側から出されたティアマトの分析結果は、物理的にも魔力的にも完全無欠の存在であることが分かっただけでした。
「死の概念」を持たないティアマトを倒すためには、生命がない世界で戦うしかありません。
そこで白羽の矢が立ったのが、冥界に引きずり落として倒すことです。
エレシュキガルが冥界の門を開くまでイシュタルの「天の牡牛」で足止めをすればよい、という希望が湧きます。
しかしイシュタルが「天の牡牛」を無くした為、結局打つ手はなしという事態に戻ります。
シャドゥリの自我が強く残ったのは何故か
ラフムへと生まれ変わったシャドゥリが、何故あれほど強く自我が残っていたのでしょうか。
エルキドゥの死で命のはかなさを知ったギルガメッシュは、不死を求めて国を捨てて放浪します。
その結果ウルクは崩壊寸前、旅から帰還したギルガメッシュに国民はそっぽを向きます。
ギルガメッシュが帰国するまで国をギリギリ支えていたのが彼女であり、一言彼に文句を言うために残っていたのも彼女です。
そしてシャドゥリとギルガメッシュは国を復興させ、国民はギルガメッシュ王を賢王と称えます。
そんな彼女ですから、とびぬけて精神と自我が強いと推測できます。
同時にギルガメッシュ王への強い忠義、芯の強さを感じる人です。
エルキドゥは、ギルガメッシュに人間としての成長を促した存在でもあります。
キングゥにエルキドゥの面影を感じていた彼女は、庇わずにいられなかったのでしょう。
原作シナリオでもこのシーンは、涙を誘う場面です。
特別EDをみて、涙せずにはいられません。
何故ティアマトは「死の概念がない」のか
もうね、ティアマトという存在のあまりにも完全無欠さは絶望です。
ティアマトは「生命を生み落とす」という、シンプルにして究極の能力を持つ女神です。
ひたすら新しい生命体を生み地上に投入する、究極の創世神。
「生命体の種の塊のような存在で、無数に新しい生命体を作り出せる。死という概念が一切ない存在」とカルデア側に分析されていますが、「死という概念がない」という理由が作中でちょっとわかりにくいですよね。
それを説明するためには、「神々が存在するために必要なものがある」という事を覚えているでしょうか。
神々が存在するためには、その存在を肯定するモノが必要です。
平たく言えば、神々に対する信仰心が必要です。
神が人々に必要とされる、肯定される=信仰されている、という状態で初めて神々は地上に存在することができます。
信仰とは、神々の能力を肯定することでもあります。
神々の能力とは、神々が生まれた瞬間から決定される役割と不変のあり様です。
(余談ですが、人間は認識されることが必要。本来マスターはメソポタミア文明の時代には存在していないので、同時代の誰にも認識されないので存在できない。しかしカルデア側でマスターの存在を認識しているので、同時代に存在が可能となっている)
イシュタル以外の神が地上に見えないのは、以前より各メソポタミアの神々への信仰心が薄くなっているためと推測されます。
(元々ギルガメッシュ王の方針で人間が神を捨てる政策をとっているせいもありますが、魔獣側に人間を殺されて信仰する民が少なくなっている影響も考えられます)
イシュタルはウルクの都市神でもあるので、まだ強い信仰が残っています。
代表的なのがシャドゥリです。
そのためイシュタルは、まだ地上に現れる事ができます。
他の神々は信仰心が薄くなり、天上界や神界といわれる別次元に帰っています。
それは「神々が地上を捨てた」ともいわれていますが、同時に「神からの人間の独立」でもあります。
そこまで踏まえて考えると。
ティアマトは「生命体を生む」事が彼女本来の在り様なので、地上に生命体が存在している事自体が自動的に彼女の存在を肯定してしまうのです。
逆説的に考えると、生命体が存在するためにはティアマトの存在が絶対不可欠であるという事です。
彼女は存在しているだけで、無限に生命体を生みだします。
無限に存在を肯定され続ける彼女には、死というものがありません。
だから彼女には、死の概念がありません。
マシュが作中で「ティアマトを倒すためには地上の生命体が皆死ななきゃ無理」と絶望的にいっているのは、このためです。
FGOバビロニア戦線は副題が非常に意味深で面白い
ここまでFGOバビロニア戦線を見てきて思うのが、副題が凝っているなという事です。
16話「目覚め」は、ティアマトの封印された状態からの覚醒であり、キングゥの中に残るエルキドゥの目覚めであり、シャドゥリの人間性と強い自我の目覚めでもあります。
17話「会議は踊る」は、有名な「会議は踊る。されど進まず」からきていると思います。
ナポレオン戦争後のヨーロッパ情勢を決定するウィーン会議で、実質何も決まらない会議を揶揄した皮肉の言葉です。
ギルガメッシュ王とマスター達が今後のことを協議しても結局何も決まらなかった事、状況に踊らされている深刻な事態を表している事を副題から感じます。
短い言葉で状況を表す副題は好きなので、これから先も楽しみです。