そろそろアレな世代の話をしようか

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ネトフリ版「幽遊白書」のビジュアルを見て何故がっかりしたか考えてみた

幽遊白書の実写ドラマのビジュアルを見た

ネットフリックスで幽遊白書が2023年12月に実写ドラマ化される、という事は聞いていました。

そしてここ数日で、主要キャラのメインビジュアルが公開されました。

ですが見た瞬間、「なんだろうこれ・・」というがっかり感が正直な感想です。

この役をやるキャストがどうのこうの、という感想ではありません。

あくまでビジュアルだけの思いです。

(このブログを書いている時点では、物語の内容も動画も公開されていません。

バトル重視、VFXをガンガン使っていくよ、という程度しか内容が公開されていません)

ビジュアルの「コレジャナイ」感はなぜ起きたのか

あのビジュアルに対して「コレジャナイ」感が強いのは、原作に触れたことがある人だと思います。

原作を全巻読んでなくても、アニメしか見ていなくても。

一目で「これは原作のキャラのようで違うものだ」と直感的に感じる何かがあります。

違和感の正体は「〇〇の」が全面に出ているから

漫画や小説をはじめとした2次元を3次元にすると、あまり原作ファンから期待されないことが多々あります。

それはなぜか。

原作を望まない方向に改変したり、実写化された作中のキャラへの違和感、作品全体への解釈が浅すぎる等々。

ファンが望むものと実際の実写化作品との、どうしようもない剥離。

これが起こりやすいのです。

 

その原因は、作り手側の意思が真っ先に前面に出るからだと思います。

原作を知っている側とすれば「原作の」実写化です。

でも作るほうは「〇〇監督の」「〇〇会社制作の」実写化作品として作っています。

明かに作り手側の意思や意図が前面に出るので、そこで先ず「あれ?」となります。

その意志や意図を全編を通して最前列に出されるので、原作を知っていればいる程、自分の思う原作とどうしようもなく開きが起こるのです。

 

今回のネトフリ版幽遊白書のビジュアルも、これが原因だと思っています。

原作の持ち味ではなく、作り手側の意思や意図が強く出ているのです。

キャラは最低限守らなければならないものがある

実写化で最低限必要なのは、細部まで作りこまれたキャラではありません。

どんなキャラにも、「このキャラはこうだ」という最低限の定理のようなものがあります。

それは科白であったり見た目の特徴であったり。

そういうものが守られて、初めてそのキャラとなります。

それが今回のビジュアルを見ると、守られていないように見えるのです。

原作を知っている側からすると、それだけで実写化への理解するハードルが高くなるんです。

 

髪の毛一筋、目の形、眉の形、視線等々。

3次元で完全再現ができないし、とても難しいのはわかります。

でも最低限各キャラの「これだけは守ってほしかった」というところがあるわけで、それがこのビジュアルから感じられない。

そこに不満を感じてる人が多いと思うんです。

見たいのは「〇〇の」ではない

原作を知っている側の意見としては、作り手や制作側の「〇〇の」作品という自己主張はあまり必要じゃないんです。

かといって、原作を忠実に再現してなぞらえなければならない、というわけでもありません。

その辺の塩梅はとても難しいのですが、実写化になったときの作り手や制作側の鼻につく自己主張をやめていただきたいのです。

それはそれで「面白い」と思える作品になることもあるんでしょうけど、作中において異質さが浮くのです。

キャラのキービジュアルの対比でよく2.5次元の舞台が比較されますが、大きな違いは制作側の自己主張を上手に隠していることだと思います。

脚本家や演出の癖はそれぞれにあるのですが、あくまで原作を最前面に出した作品を作っています。

 

ネトフリ版の幽遊白書ですが、実際に動いているものを見るとビジュアルとは違う印象を受けるかもしれません。

ですがこれだけは言いたい。

原作を知っている側が見たいのは、作り手や制作側の自己主張の強いものではありません。

見たいのは「幽遊白書」であって、それっぽい何かではない。

そのことを頭にいれてつくってるのかな~と、若干不安ではあります。

ビジュアルだけで作品の全ては語れませんが、今のところ開示されているのがこれだけです。

実際はどうなるんでしょうね。

 

 

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