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「静かの海のパライソ」のラスト部分に対する考察

<ネタバレを含みます>

 

「静かの海のパライソ」ラスト部分を考察

1年8か月の旅を経て、ついに刀ミュ「静かの海のパライソ」が大千秋楽を迎えることができました。

コロナの影響を強く受けた受難の舞台でしたが、念願の完走おめでとう!

 

<物語の超大まかなあらすじ>

今回の舞台の中心は島原の乱

江戸時代最大の乱でありながら、いまだに様々な謎が残っています。

刀剣男士はその謎を利用して歴史を守っていくのですが、「歴史を守る事」の辛さや苦悩、葛藤、悲劇が襲ってきます。

どんなにつらくても歴史を守る事を貫き、最終的には任務は成功。

任務は成功しましたが、それぞれに大きな影響を与えたのでした。

 

島原の乱を知らなくても、とても悲しくて重くて切なくて心にずしりとくる話です。

少しでも知っていると、その分心への破壊力が増します。

ですが。

隅々まで徹底した演出、物語の展開、役者さんたちの演技がピタッと合致して素晴らしい舞台でした。

繰り返してみたくなるとてもいい作品で、大好きです。

 

今回の舞台も刀ミュ作品の例にもれず、作品中に詰め込まれた情報が膨大です。

この記事では印象的な「島原から本丸へ帰ってきてからラストの集合までのシーン」を考察してみたいと思います。

深読みしすぎかもしれませんが、私なりの解釈です。

パライソの中で日向正宗だけ特別な描写がある

<本丸に帰ってきてからのラストシーンの流れ>

島原から本丸に帰ってきた後、まだ島原のことを各々が気にしています。

浦島虎徹は島原の事、鶴丸国永の事を考えます。

そして松井江は鶴丸国永との関係を悩んでいる様子。

それを見た豊前江が、梅干しが食べ頃になったことを口実に仲直りしろとアドバイスをします。

そしてみんなで梅干しを食べるのですが、その不出来に笑って仲直り。

その背後には島原の乱の関係者が全員登場。

一揆側も幕府方も皆で笑顔でおにぎりを食べており、刀剣男士もそこに交じります。

そのまま和やかな雰囲気で終幕。

 

私が気になったのが、「日向正宗が漬けた梅干しを皆揃ってここで初めて食べる」という事。

ここで食べるのは、島原へ出陣前に日向正宗が漬けた梅干しです。

そして日向正宗は、パライソの中で天草四郎の役割をする一人。

天草四郎の役割を3人で行いますが、イエスキリストを連想させる「神の子」の描写があるのは彼だけです。

その彼が作ったものを初めて作中で、しかも任務後に彼が仲間たちに手渡しをして食べる、というのはキリスト教の儀式を連想させるのです。

まるでミサのよう

梅干しが食べごろというのは、それだけ時間がたったという描写でしょう。

しかしその他にも暗示があると思うのです。

 

キリストは処刑の前日に「パンは私の体であり、ワインは私の血である」といわれ、それを弟子たちに分け与えます。(最後の晩餐)

最後の晩餐でキリストによって行われた行為は、ミサといわれる儀式で行われます。

その時使われるのがホスチアというパンの一種。

ホスチアをキリストの体として信者に分け与えます。

それにより罪からの救いと信者同士の絆を深めるとされています。

この行為は海外ドラマや映画でよく見ることができます。

 

島原の乱キリスト教徒はカトリック系であることが推測されるので、ミサは重要な儀式です。

 

梅干しは日向正宗の得意とするものであり、縁が深いものです。

先にも書きましたが、「神の子」とされた日向正宗がそれを仲間の刀剣男士分け与えて食べる。

流れを考えると、まるでミサのようではないですか。

梅干しがホスチアの代わりだと思うのです。

 

でも彼が漬けた梅干しは失敗しています。

それは日向正宗は「神の子」そのものではないので(天草四郎の偽物としての役割だったため)、この時「いい塩梅の梅干し」ができなかったできなかったのではないでしょうか。

ミサの暗示として考えたとき、失敗した梅干しを食べても、恐らくは島原の乱で背負った様々な罪や苦悩をなくすことはできないでしょう。

でも和らげることができた、そう思うのです。

以前として島原の事は心に残る=考え続ける、という事だと思うのです。

だから最後に笑顔になれるのではないでしょうか。

島原の乱の出来事を受け入れて成長する暗示

もう一つの意味は、島原の乱の出来事を各々が受け入れた暗示ではないでしょうか。

 

浦島虎徹は梅干しの話が出てくるまで、ずっと島原の乱で兄弟が持っていた石をいじっています。

落としても躊躇いつつ、また拾います。

梅干しの話が出てはじめて、その石を懐にしまい込みます。

 

日向正宗が失敗した「しょっぱすぎる梅干し」は、かなりの物のように描写されています。

それでも皆ちゃんと食べます。

これは「辛い経験をそれを自分なりに受け入れる事ができた」という暗示にも見えるのです。

 

松井江は大声で「なんじゃこりゃあ」、豊前江の「目が覚めた」、浦島虎徹の「涙が出そう」、大倶利伽羅の「もう一つ欲しい」。

鶴丸国永と日向正宗は「しょっぱい」という反応を共にしています。

この反応も意味深。

島原の乱で己と向き合った松井江。

東京心覚で「相手のことを知らないで殺したくない」という豊前江。

戦というものをしった浦島虎徹

仲間を支えるために強くなりたいと歌っていた大倶利伽羅

歴史を守ることをそばで見ていた日向正宗。

一番の汚れ役を率先してかぶり壊れそうになっていた鶴丸国永。

 

誰一人、しょっぱすぎる梅干しを吐き出していないんです。

日向正宗に対する気遣いもあったかもしれませんが、それでも拒否はしないんです。

しょっぱすぎる梅干し=辛い経験を受け入れています。

浦島虎徹も、石を投げだしていません。

梅干を食べた後の笑顔は失敗を笑っているという意味もあると思います。

ですがそれぞれが島原の事を受け入れて、やっと出陣前の日常に少し戻ることができた、という意味ではないでしょうか。

(大倶利伽羅はさらに強くなるためにお代わりを頼んでいたのではないかと思っています)

「静かな海のパライソ」というタイトルの意味

そして気になるのが「静かの海のパライソ」というタイトルの意味です。

作中に置いタイトルに直接触れるのは

「静かの海」は月にも海があるが退屈そうだ、という感想。

「パライソ」は天国を意味する言葉を解説。

この程度です。

 

先にあげた本丸帰還後の梅干しのシーンの

キリスト教の宗教的な暗示

島原の乱に出陣して経験したことを受け入れた暗示

という複数の暗示と物語の内容を考えて、「静かな海のパライソ」というタイトルは手の届かない天国=理想郷と解釈しています。

 

この作品はハッピーエンドではありません。

任務成功をしてみんな幸せになりました、そんな甘い内容ではありません。

歴史を守るために民衆をだまして犠牲としなければなりませんでした。

目の前にいる人を救いたくても救ってはいけない。

人間同士の暗くて醜い戦いを見せつけられました。

自分と向き合うために、向き合わせるために、助けたいと内心思っていた人達を殺す必要がありました。

パライソ(天国)という名のインフェルノ(地獄)。

まさに地獄絵図の中を彼らは駆け抜けて、様々な経験をしてきたのです。

一番最後のシーンは刀剣男士が思い浮かべる心象風景では?

そんな物語の一番最後のシーンは、大変印象深いシーンの一つです。

幕府側も一揆側も同じ場所で一緒におにぎりを食べて笑って、誰も苦しんでいない理想の風景です。

そこに刀剣男士も加わって和やかで賑やかなまま終幕。

 

これはあの世の風景ではなく、刀剣男士が思い浮かべる理想郷としての心象風景ではないでしょうか。

史実ではありえなかった風景。

そうであってほしかった風景。

だから刀剣男士達が振り返って眺めた後に、その中に入って楽しそうにしています。

 

先にも書きましたが、地獄の中を彼らは任務のために過ごしたのです。

仲間のために一番の汚れ役を引き受けていたとはいえ、出陣メンバーの中で一番のベテランである鶴丸国永でさえ、精神的に折れそうになるくらい疲労するような任務だったのです。

(彼は本来心根が優しいというのもありますが)

出陣した刀剣男士達の中に残した傷跡や辛さは、簡単に飲み込めないぐらい大きかったでしょう。

 

悲しく重く辛く、人の業の塊のような物語でした。

もし希望を彼らの中に見つけるとしたら、浦島虎徹の言葉にあります。

「強い人は悲しい思いをいっぱいしてきたから強くなれた」という言葉です。

彼らはこの先、練度だけでなく精神的に強くなっていくのでしょう。

 

それを示すように「東京心覚」では、「静かの海のパライソ」の影響を受けた豊前江がいます。

まだ抜けきっていないようにも見えますが、自分の進むべき方向を見出しているようにも見えます。

・・ただ心配な面もあるんですが。

それはまた別の話で。

 

「静かの海のパライソ」は幸せな物語ではありません。

でも心を引き付けて離さない物語であり、考えさせられる物語です。

この作品を見れてよかったと、心から思っています。

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